「奇跡の1マイル」那覇国際通りのルーツ

国際通りの由来は、現在のてんぶす那覇の付近に「アーニーパイル国際劇場」という映画館が
あったことから、この通りの名前がつきました。

当時は何もなかった国際通り周辺に、戦後の人々に娯楽を楽しんでほしいとの事から
米軍政府と琉球政府の協力で民間会社がこの劇場を建設し、アメリカの従軍記者で第二次世界大戦中に
沖縄地上戦で亡くなったアーニーパイルの名前を付け、
「アーニーパイル国際劇場がある通り」から「国際通り」と呼ばれるようになったそうです。

アーニーパイル国際劇場(奇跡と呼ばれた一マイル-沖縄国際通り物語より)

著者名
大濱 聡
出版社名
ゆい出版
問合わせ先
電話 098-973-9872
住所
〒904-2245沖縄県具志川市字赤道713-2

沖縄従軍記者アーニーパイル

事実上陸して後、進軍の途中で見た沖縄の村の様子についてはこう書いている。
 「実際に見た沖縄は、アメリカの大抵の土地とさして変わりなかった。海兵隊にとってはここ三年見てきたどこよりもアメリカに似ていた。気候も熱帯というよりも温帯的で、植物もそうだった。海岸にはたぶんパンダナスの茂みと思われる熱帯植物もあるにはあるが、枝を水平に張っている樅の類が豊富に生えている。私のいた隊が最初の2日間に通過した村はきれいに耕されていた。海岸から小さな段々畠がなだらかに延びているところなどインディアナ州の、ものみなが乾燥しはじめて褐色を帯びる晩夏のころをまざまざと思わせた。」
 (アーニーパイル「最後の章」)4月16日、アーニーパイルは沖縄での最後の取材をするために、第77師団とともに伊江島に上陸した。
 伊江島は離島にあって最も熾烈な戦闘を展開した所である。

周囲22キロの小さな島での戦闘は、後に「沖縄本島の規模を縮小したようなもの」といわれた。2日後の18日、アーニーパイルは連隊の指揮官とジープに乗って前線に向かった。
 村はずれにさしかかったとき、道路脇の丘に隠れていた日本兵から機関銃の狙撃を受けた。ふたりはジープから転がり出て、傍らの溝にうつぶせになった。
 やがて、辺りが静かになったので、様子を見ようとパイルが頭をあげたときである。再び銃弾を受けた。銃弾は鉄かぶとの縁の下から、パイルの左こめかみに命中した。
 従軍記者アーニーパイルは、こうして戦場で命を失った。44歳だった。

「同僚ならびに兵隊からも将軍からもひとしく愛された従軍記者アーニーパイルは、今朝日本軍の機関銃弾に左こめかみを貫かれ、ついに戦死した。アフリカから沖縄にいたるまでのあらゆる戦線から報道を書き送った有名な寄稿家の死は午前10時15分、司令部から約一哩前方であった。(琉球諸島、伊江島司令部にて)」(「ウルマ新報」)4月18日発のAP電である。
 アーニーパイルが犠牲になった3日後、伊江島は完全に米軍の手に落ちた。

その後、彼が戦死した場所に墓標が建てられ、沖縄戦終了後の7月1日、米軍によって除幕式が行われた。
 「第77歩兵師団はこの地で、戦友アーニーパイルを1945年4月18日に失う」碑には、そう記されている。
 もしアーニーパイルが生き延びて沖縄戦終結にまで見届けていたなら「ありたっけの地獄を一カ所にまとめたような戦争」と言われ、大勢の住民を巻き込んだ沖縄戦をどう伝えたのだろうか。興味のあるところである。